totojp’s blog 教育言いたい放題

若い先生方に読んで欲しくて書いています

学校が何も教えられなくなっている!

   学校は何も教えることができなくなっている。もちろん授業で教えることは可能なのだが。教育の一つの側面として過去の価値ある文化の伝承があることは間違いないのだが,それが打ち出せなくなっていると感じる。

  確かにその昔も日本は日本の国なので、その文化を教えることになるし,またその文化を教えざるを得ない。しかし,日本のその常識みたいなものは,何もルールとして成文化されているわけではない。外国籍関係の生徒と対応するときなどに,困った思いをした覚えがある。

 今は,その状況はさらにおかしなものになっている。かつて価値観の多様化と言っていたが,そんなものではない。今の学校が公共のサービス機関に成り下がっている。良く言えば保護者の価値観,悪く言えばわがままの言いたい放題であり,これに対して校長も抑えることはできない。かつては,校長がリスペクトされていたので,校長が高所から話をすれば,保護者も納得して(納得するしないに関わらず)引き下がり,事が収まることがあった。今は校長さえもその地位を危うくされかねない。これでは管理職という責任を負わされたものはたまらないだろう。今は学校への過度な要求に対して,学校は対応に四苦八苦させられている。

 学校は集団で学ぶところである。教師が関係しなくとも,子供たちは自然に関わる。関われば利害関係が生じてくる。子どもたちは子どもゆえに,その利害関係を調整できない。ここからのストレスからいじめなども生まれてくるのだが,この調整は教師がやらざるをえない。しかし,親さえも価値観が一致しない中,この解決は当然難しい。どちらかに優劣をつけるやり方ではなく,どちらにも花を持たせるようなグレーな解決しかない。

話がだいぶ横道にそれたので本題に戻そう。

 かつて学年目標を“学校の柱”とした学年があった。私自身も“2年生は学校の柱だから”ということばを使ったことがあるが,123という学年の位置関係から柱であることは間違えない。しかし.この目標では生徒への指導や評価につながらない。柱として具体的に何をやるかを考えなければ,子供たち指導や評価することはできない。

 それと同様に“未来の創造”を学校目標に掲げた学校があるという。もちろん,私は私自身が教育に携わることで,人材が育ち,その人たちが未来を創造していくことに,教育の醍醐味を感じて,教師という仕事に就いた。子供たちが将来未来を創造していくことは,当たり前のことである。

 しかし,いったい何を創造していくのだろう?卓越した想像力など,人には存在しえないと考えている。人は自分の持っている情報の中でしか,思考することしかできない。ましてや子どもたちが持っている情報など,子どもたちゆえに狭く少ない。将来未来を創造するために,今は学んでいこうならば,意味は分かるのだが,いったい何を学ばせるつもりなのだろう。

 学校目標は全校生徒が共通する目標であり,子供たちが成長するために杖とすることばでもある。これがファジーな言葉でしか設定できない学校とは,何なんだろう?今の学校は何も生徒に教えることは,できないのだろうか?