豊かな表現力
これも平成24,25年ぐらいに書いた文章だと思います。研究主任として市に報告をあげて,それに対して答えた文章だと思います。当時,私は「豊かな表現力」を研究テーマに据えて,学校の研究主任を務めていました。ちょっと文章を直して載せました。
○教育の最終目標を達成するためであるはずだと思いますがいかがでしょうか?はじめの文章だとコミュニケーションが目的のように受け取られはしないでしょうか?
教育の目標はいろいろあると思います。もちろん、教科はその教科の教科性があるので、授業においては教科の目標もあるはずです。
その目標の中で、学習指導要領で特に強調されているのが、21世紀の変化の激しい社会の中で生徒に生きる力(問題解決能力,豊かな人間性,たくましく生きるための健康や体力)をはぐくむことです。コミュニケーション能力は問題解決能力の中核です。ここまでは、かなり同意されているのではないかと思います。ですから、表現力,コミュニケーション能力は手段でもありますが、目標でもあると思います。
大江健三郎が言うように、日本語は曖昧な言葉で、その曖昧な言葉でも20世紀でははっきり言わなくても島国の日本では“なあなあ”で意志疎通が図られてきました。しかし、21世紀の国際化社会の中で、それは通じなくなってきている。また、日本人同士でも格差社会の影響もあり、家庭自体の生活様式も多様で、今まで常識とされていたことが疑わしくなってきており、共通基盤がなく、“なあなあ”が通じなくなってきている。大人さえコミュニケーションがたいへんな世の中になってきているのだから、子どもたちはもっとです。“いじめ”しかりです。“いじめ”は多くの場合はお互いの意志疎通が図られずに、そこからくるストレスが原因のほとんどだと思っています。
研究の概要の説明では言葉を濁しましたが、本校は生徒指導がたいへんな学校です。今はだいぶ落ちついていると周りから言われるようになってきましたが、それは前に比べて学校体制でうまく抱えたり、対応しているからだと思います。
原因はいろいろです。学校自体の問題をちょっと考えただけでも、
・地域や学区内の小学校の特色が違いすぎていて、生徒・家庭が多様。
・大きな団地を抱えている。
・近くに私立学校等がある。
が、あげられます。
そして、生徒(家庭)自体の問題を分析すると、
・軽度発達障害の問題
・知症および境界線児の問題
・家庭環境
・外国籍の生徒の問題
があがります。
上の2つの問題を抜きにしても、下の2つの生徒たちの問題でコミュニケーションが大きなカギになります。会話しようとしても共通の基盤がない。そんな社会状況も出てきているというのはその2つの問題からです。
例えば、中国籍の生徒は(もちろん個々にいろいろなケースはあります)、顔や姿は似ていても考え方や生活様式がぜんぜん違う、そして、中国人はその国の文化に染まらずに、独自の文化をつらぬき通す。そういう子どもも含まれる集団の中で、子どもたちが会話しようとしても共通の基盤がないので、コミュニケーションが苦しいのは当然です。
そんな学校の苦しい状況を打開するのは、私は生徒に「豊かな表現力」をはぐくむことだと切実に感じてテーマ設定してきました。
繰り返しになりますが、豊かな表現力は教育の目標の一つです。今の子どもたちに重点をおいてはぐくまなければならない力だと感じています。それは学校教育全般ではぐくまなければなりません。授業においてもはぐくむ必要があります。もちろん授業ではそれ以外にも目標はあると思います。豊かな表現力をはぐくむことは他の目標をはぐくむことの邪魔にはならないと思います。豊かな表現力をはぐくむことを考えて、授業を構成しても従来の授業と大きく変わることはないと思うので。ただし、豊かな表現力をはぐくむことを授業者が意識することが重要だと思います。
○表現力・コミュニケーション能力・ディベート力について
「豊かな表現力」は研究テーマ設定のところで、「豊かな表現力とは感情のあるがままの表現や思いつきの乱れた言葉での表現などでなく、発信者の深く広い認識に基づく相手の心に届く表現である。」と定義しました。ですから表現力(最終的には相手に伝わるかどうかは二の次。本人が自分の思い・考え・感情etc.をより的確に表現する力。芸術家の作品が、その死後に評価される。その時代に評価されることを第一の目的とはしていない。)と“豊かな表現力”は違うと考えています。(*もちろん提出した紙面では定義していないことは自覚しています。)それから、芸術家の場合は“表現力”というよりは“表現”と単に使われることが多いように思いますが、どうでしょうか?
○「個の追究がなされたとき、生徒には学習集団というコミュニケーション可能な空間が出来上がり、」とありますが、“個の追究がなされないとコミュニケーションが成立しない”という意味なのでしょうか?
もちろん個の追究がなされなくともコミュニケーションというべきなのか会話というべきものなのかは分かりませんが、課題が把握されればその課題に対しての会話は成立可能だと思います。
ただ、私自身は“豊かな”を意識しています。
よくあるのが、授業中、友達同士がかかわっていても、一方的に教えてもらったりとか、質問をするだけの姿です。私はそれを豊かな表現力(コミュニケーション)とは考えていません。単なる意志の疎通程度では豊かな表現力とは思わないのです。(では、どこで線を引くのかと言われれば難しいですが・・・。)
余談ですが、この年末年始、私は海外旅行に出かけました。シンガポール,タイです。この2つの国で私自身は言葉のことで問題がぜんぜんありませんでした。それは私が海外旅行に慣れてきていること、私ぐらいの英語力でも何とかなる。(旅行はできるんです。)でも、それは高い意味でのコミュニケーションを図られたわけではありません。
事前研究授業でH生が自分の言葉を訂正しました。そのことが想定としてあります。彼を知っている多くの先生が評価しました。それは、彼が友だちを評価する言葉をいうなんて考えられなかったからです。なぜ、彼が変わったかといえば、彼自身も追究したのでそのよさが分かり、そして、最初の言葉では他者には自分の言いたいことが伝わらないので、訂正したのだと思います。彼の中で追究をしたことが素地としてあったので、友達の素晴らしさがわかったのです。
豊かな表現力をはぐくめる場は、ただ課題が把握されているだけではなく、自分なりの追究や考えがあって、豊かなコミュニケーションが成立する場できるのではないかと思っています。
本番の実証授業でも、数学では75°の個人追究があったので、シャッフルタイムで生徒同士のコミュニケーションが成立したのではないかと思います。家庭科でも1回目の調理という共通体験があり、その子たちなりの食材に関する調理結果をもっていた。このことでコミュニケーションが成立したのだと思います。
あの文だけでたしかに言葉は誤解されると思います。ただ、私としては、「学習集団(コミュニケーションが成立する集団ということで、かなり高い意味で使っています。)という質の高い(これを付け加えるべきか?)コミュニケーション可能な空間(豊かな表現力をはぐくむ場と考えています。ですから単なるコミュニケーションではなく高いものを考えています。)が出来上がり」と考えています。
○コミュニケーションを通して個の追究が深められていき、その上に立って更に質の高いコミュニケーションがなされ、質の高い個の追究がなされていくという繰り返しでは無いでしょうか?
その通り徐々に高まっていくものだと感じます。ですから、私はあそこで磨きあげると表現しました。磨き上げるとは先生方の書かれている意味で使っています。
○そして、教育が最終的に求めることは“質の高い個の追究がなされていく”ことであって、コミュニケーションはその手段ではないでしょうか?
これは、前に書いたように通り、手段でもあり、目標でもあります。
○「話題」の解釈
話題に関しては、前に書いたとおりです。他にいい言葉が見つかりません。
○話題と学問
私はこのように書きました。「お互いが共通の基盤に立つ話題が生まれる。その話題は学問という文化と歴史を背景としたものを基盤となるので、誰に対しても平等でしかも質の高いコミュニケーションの可能性を有するものである。」
授業では話題(?)なり生徒同士が関わりあえるものが生まれてくるというのは異論がないことだと思います。私はその話題なり関わりあえるものが生まれることが素晴らしいことだととらえています。それは普段の生活の中で人と人が関わりあえることが難しくなってきているからです。(なかなか質の高いコミュニケーションが大人でもとれることは難しいです。)そして、それは授業ですので低レベルのものではなく、学問に関わるものです。「誰に対しても平等でしかも質の高いコミュニケーションの可能性」は「学問」というものの性質です。
(*その意味は伝わりませんかね?考えて見ます。)
すいません。いろいろ書かせていただきました。いろいろ書いてもあの紙面では伝えることができないので、あまり意味がないと分かってはいるのですが・・・。
でも、私自身は“豊かな表現力”はこれからの教育を変えていく力だと思いますし、眼前の生徒たちを見ていて、切実感のある目標です。
ご指摘の場所に関して、全面的に訂正させて頂きます。