totojp’s blog 教育言いたい放題

若い先生方に読んで欲しくて書いています

2年 式の計算の導入 その2 導入の授業について書きます


 さて,話をようやく元に戻します。2年の「式の計算」の導入です。ここで扱うことは文字を使うよさです。私はこんなふうに導入しています。

 まず,「式の計算」と板書して,その下に「⚪︎いつでも言えることを説明する」と板書します。そして,下のような枠をノートの1/6~1/8程度で書かせます。

ノートの6分の1ぐらいに書かせましょう

”数学を学ぶ”においての基本は機会がある度に教える

 ちなみにですが,最近私はこのように板書しています。今日学習することのタイトルを書き,今日の学習活動などがわかるものを書きます。どうしてそう板書するのかというとメリハリをつけるためです。またまた,脱線しました。

 そして,枠の⚪︎印に適当な数を入れることを指示します。このとき,あまり値の大きな数を入れない事もつけ加えます。また入れさせたあとに,よく「数学でいう適当は日常生活での適当とちょっと違います」という話をします。要するに「ランダム」の話なのですが,このとき結構,同じ数を書いてきたり,連続した数を書いてきます。そういう数は特殊だと話をします。”数学を学ぶ”においての基本的な話なので,こういう機会に指導したいですね。

 そして,⚪︎に書いた数を縦横に足させて,答えを▫︎に書くように言います。さらに▫︎を縦横に足させて,三角形のところに書くように指示します。

なぜを問う

 「どうなった?」と問うと「同じになった」という子が出てきます。みんな同じになったかな?周りを確かめてください」と言います。値が同じにならない生徒もいると思います。そういう生徒も近くで確かめたり,生徒と一緒になって確認します。そして,みんなが同じなることを確認したら,「どうしていつでも同じになることを説明しよう」と言って,個人追究をさせます。

 追究させると,「みんな足していることになるから」と答えてくる生徒がいます。そういう生徒が出てきたら,「へ-,どうして?」とさらに説明を求めます。しばらくすると以下のような計算を書いてくる生徒が出てきます。出てこない場合は,計算等している生徒にアドバイスしてください。「もっと詳しく書こう」などの助言をすれば,出てきます。また,この時点で「周りと相談してもいいよ」と話します。

 

(4つの数字が7,2,8,5の場合)
       (7+2)+(8+5)       (7+8)+(2+5)    
                    =7+2+8+5                 =7+8+2+5
                                                                              =7+2+8+5

    板書をさせて説明させます。そして,「納得できる?」と聞きます。かなりの場合,納得できる生徒がたくさん出てきます。頭を傾げている生徒には周りと相談せてください。そこで,タイミングを見計らって,「先生は納得できないなあ」と呟きます。「今日,説明することはいつでもなんだよね」と言って,板書を示し,そして確かに,「7,2,8,5の場合」の場合は,説明できたけれど,いつでも言えることを説明したことになるかな?」と言います。そして,いつでも言えることを説明するにはどうしたらいいだろうと問います。

目的を教師自身が肝に据えておく

 ここで学級によって差が出てきます。

 もう既に文字で説明しようとしている。生徒がいる場合は,「何使って説明しようとしている」と言って,このときに発言させます。文字を使っている生徒がいない場合は,最初に黒板に式の計算と書いてあるので,黒板を見てみなさいと言ったこともあります。また,もう一度個の追究に戻すこともよいでしょう。

 ここで重要なことは,今日は「文字を使うことのよさを教える授業なんだよ」という目的を教師自身が肝に据えておくこと。あとはそれめがけて,生徒の考えを引き出していくことです。 

 文字の置き方や数で計算したことをそのまま文字で表してみることなど,生徒の様子を見ながら支援します。文字で説明できた生徒には板書させましょう。(私はこういう場合は書画カメラを利用しますが・・・。)そして,文字を使って説明するとどしていつでも言えることになるのと聞くと,「代入すればいいから」などと答えるはずです。

 そうだね。数を使うと無限に説明しなきゃいけないんだけど。文字ではその必要がないんだね。「君たちは文字を使って,無限のことを説明できることになるんだね」と話をします。

発展的に扱うためには問題変え

 ここまで来れば良いのですが,時間があれば問題変えです。+をーにしたり,マスの数を3×3などにするのもいいでしょう。その昔は優秀な生徒は発展した内容についてレポートを書いてきました。

 実はこの問題若い頃はーでやっていました。しかし,()を外す計算があまり生徒ができないため,あるときから+に変えました。1年間の最初に考えさせる授業です。ここでハードルが高すぎるのも厳しかろうと考え,+にしました。+でも十分生徒に考えさせます。目的さえはっきりしていれば手立ては柔軟にすべきですね。

 

最後に

 特別支援の生徒を教えるときに,この授業を文字式の利用の最初にもっていったこともあります。式の計算の利用の授業については,また書こうと思いますが,2年の最初で文字について考えさせることは単元全体の見通しを持つためにも大切だと思います。

2年 式の計算の導入 その1 脱線に次ぐ脱線をしていますので、導入以前です

 実は今年度は2年生のい普通学級は教えておらず,そのためにこのブログでも2,3年については書いてきませんでした。1年の正負の数についてはだいたい書くことができたので,ここで式の計算について書きます。ただここは脱線に次ぐ脱線をしていますので、導入以前です。具体的な導入場面は次のページです。

大切なのは導入です!

 私が2年の「式の計算」で大切にしていることは,「導入」です。なぜかというと,式の計算の前半は計算です。これは生徒指導上の問題などない学習に興味関心が薄れていない生徒たちであれば,すんなりと流れるはずです。言い方を変えれば学習に興味をなくしている生徒に計算をやる気にさせる手立ては難しいです。それは計算はそれ自体では意味がなく,無味乾燥していると言っても過言ではないからです。強いて言えば,内容以外のところで工夫するしかない。授業の運営の仕方やできることで達成感を与えることなどで改善するしかないと考えています。

 しかし,正直それも限界がある。大変な学校で教えていた頃,偉そうに授業改善と言われたことがある。確かにそうなのだが,普通の教師ならば常に授業を改善しようとしていない教師はいないはずだ。例えば理科は実験などを多くすることで,集中する時間を減らすなどの手立てを打つ事ができる。他の教科も学習が厳しい生徒にそれぞれ逃げ場はつくれるように思う。数学でそれをつくるのは難しい。

 話がかなり脱線してしまいましたが,「導入」で扱いたいことのひとつの目的として,この単元を学ぶ価値,文字を使うよさということです。教師になってなりたての頃は空間図形で学習する立体の体積や表面積は公式を暗記して,そこに値を代入するという学習であった。もちろん公式をただ覚えることにあまり価値はないのだが,そこには代入のよさや文字を使うことで公式を簡潔に表すという文字の良さが実感できたと思う。それがなくなって,今は文字で表現するが公式に代入して計算するという点が薄くなってきている。これはただ単に公式を暗記することの弊害をなくしたからであろうと思われる。しかし,代入計算は数学では大切で特に高校数学などは代入計算ばかりだ。

 

ゆとりの時代 代入計算ができなかった

 私はちょうど「ゆとり」と呼ばる時代の最初に,人事の関係で高校に勤務していた。そのときびっくりしたのは,ゆとりできた生徒たちがそれ以前の生徒と違って,代入計算が全然できないのだ。そう「解の公式」がそのときは高校に移ったために,代入計算をする経験がなく,高校に来てしまったのだ。確かに式の計算の単元の中で,代入を扱う場面はある。しかし,その場面だけでは代入する式自体に意味が薄いので,代入計算の価値は伝わらない。そういう意味から空間図形で公式に代入して計算することも必要なのだ。しかし,現行は中学校では初めて代入を使って具体的に解決するのは解の公式である。解の公式は代入計算を初めて練習する場面だと教師は心掛けておいた方が良い。それは高校数学を学んでいくときの生徒を扶けることにつながると考える。

 さらに脱線します。こう書いたからと言って,私は単純に「ゆとり」と呼ばれた学習指導要領を否定しない。あの学習指導要領から「総合的な学習の時間」が創設された。趣旨は間違っていなかった。あの当時,私はまだ30代の研究主任を研究が盛な学校で勤めていた。もちろん学習指導要領の方向を早めに取り入れ,学校は対応していた。その前線にいたと言ってもいい私や当時の私の勤務校でさえ,あの学習指導要領は対応が難しいと感じた。それは振れ幅が大きすぎたのだ。各教科を一律で1時間ずつ週あたりでカットしたことで,各教科の系統性などそれまでの指導を崩してしまい,かえってゆとりを無くしてしまった。

 またまた脱線。ちょうどゆとりの子供たちが入学してきたときのある高校の数学の研究会で「学力が下がったか?」という議論になっていた。高校の先生方はほとんどの方が本当に優秀だと思っている。厳しい関門の中から教員になっているので,また実際に中学の先生よりもきれる。しかし,この議論にはびっくりした。もちろんあの頃,学力低下がちまたで話題になっていた事も確かだが。「なんというバカな議論をしているのか?」と感じた。学習指導要領が変わって,教えられていることが変わったのだ。したがってそんな簡単に,学力が上がったか?下がったか?比べられないし,議論できないのだ。強いて言えば学力の質が変わったとしかいいようがない。

 

考えること

 平成17年頃に書いた文章だと思います。そのころは田舎の中学校現場で教えていました。困難点は学力観が昔ながらで,それが親だけでなく,子供,さらには同僚教師までだ。そのとなときに生徒向けに書いた文章だと思う。

 

「なぜ、数学を学習するのか?」。これは、中学生ならば一度は考えたことがあるのではないだろうか。

先日、道徳の授業の中で「なぜ、学習するのか?」という質問をしました。その中で、多くの生徒が「テストでよい点数を取るため」と答えました。「よい点数を取る」、これはある面では素晴らしい目標だと思うし、テストでなるべくよい点数を取ったほうが良いに決まっている。ただ、この目標の先には入試という目標があるのだと思う。したがって、入試がなければ学習する必要がなくなってしまうように思う。

前任校は高校だったので、生徒からよく聞かれたことは、「こんなことやっても生活に役立つのか?」ということだ。もちろん、義務教育でもない高校の数学が生活に必要かと聞かれれば、それは必要がないとしか答えようがない。(もちろん、よりよく生きるためには必要なのだと思うが。)

 それでは、「何のために数学を学習するのか?」。もちろん、そんな大きな問題を私一人の力で答えられるものではないが、それでもあえて答えるなら、それは「考える」ことではないかと思っている。そして、数学は人類が育ててきた文化であり、考えるに値するものだと思っている。

今、日々の授業でそんなことを考えながら、授業を行っている。よく授業を「分るか、分ないか」で自己評価するが、それと共に、自分自身がその授業時間中に、「数学を考えたかどうか」を評価の観点に持って欲しいと思う。

 

 今、読み返してみると、生徒には難しい文章だろうなと感じています。また、あの頃「常識が通じない通じない」と悩んでいました。正攻法でいって無理なら、「手立てを変える必要があったな」と考えています。自分を変えるの簡単だが、他を変えるのは難しい。また、そんなに簡単に変わってはいけないのだと思います。この辺の経験から“教育では革命は起こせないし,また起こしてはいけない”というのが私の信念になっています。

 

豊かな表現力

 これも平成24,25年ぐらいに書いた文章だと思います。研究主任として市に報告をあげて,それに対して答えた文章だと思います。当時,私は「豊かな表現力」を研究テーマに据えて,学校の研究主任を務めていました。ちょっと文章を直して載せました。

 

教育の最終目標を達成するためであるはずだと思いますがいかがでしょうか?はじめの文章だとコミュニケーションが目的のように受け取られはしないでしょうか?

 教育の目標はいろいろあると思います。もちろん、教科はその教科の教科性があるので、授業においては教科の目標もあるはずです。

 その目標の中で、学習指導要領で特に強調されているのが、21世紀の変化の激しい社会の中で生徒に生きる力(問題解決能力,豊かな人間性,たくましく生きるための健康や体力)をはぐくむことです。コミュニケーション能力は問題解決能力の中核です。ここまでは、かなり同意されているのではないかと思います。ですから、表現力,コミュニケーション能力は手段でもありますが、目標でもあると思います。

 

 大江健三郎が言うように、日本語は曖昧な言葉で、その曖昧な言葉でも20世紀でははっきり言わなくても島国の日本ではなあなあで意志疎通が図られてきました。しかし、21世紀の国際化社会の中で、それは通じなくなってきている。また、日本人同士でも格差社会の影響もあり、家庭自体の生活様式も多様で、今まで常識とされていたことが疑わしくなってきており、共通基盤がなく、なあなあが通じなくなってきている。大人さえコミュニケーションがたいへんな世の中になってきているのだから、子どもたちはもっとです。いじめしかりです。いじめは多くの場合はお互いの意志疎通が図られずに、そこからくるストレスが原因のほとんどだと思っています。

 研究の概要の説明では言葉を濁しましたが、本校は生徒指導がたいへんな学校です。今はだいぶ落ちついていると周りから言われるようになってきましたが、それは前に比べて学校体制でうまく抱えたり、対応しているからだと思います。

 原因はいろいろです。学校自体の問題をちょっと考えただけでも、

 ・地域や学区内の小学校の特色が違いすぎていて、生徒・家庭が多様。

 ・大きな団地を抱えている。

・近くに私立学校等がある。       

が、あげられます。

そして、生徒(家庭)自体の問題を分析すると、

・軽度発達障害の問題

・知症および境界線児の問題

・家庭環境

・外国籍の生徒の問題

があがります。

 上の2つの問題を抜きにしても、下の2つの生徒たちの問題でコミュニケーションが大きなカギになります。会話しようとしても共通の基盤がない。そんな社会状況も出てきているというのはその2つの問題からです。

例えば、中国籍の生徒は(もちろん個々にいろいろなケースはあります)、顔や姿は似ていても考え方や生活様式がぜんぜん違う、そして、中国人はその国の文化に染まらずに、独自の文化をつらぬき通す。そういう子どもも含まれる集団の中で、子どもたちが会話しようとしても共通の基盤がないので、コミュニケーションが苦しいのは当然です。

そんな学校の苦しい状況を打開するのは、私は生徒に「豊かな表現力」をはぐくむことだと切実に感じてテーマ設定してきました。

 繰り返しになりますが、豊かな表現力は教育の目標の一つです。今の子どもたちに重点をおいてはぐくまなければならない力だと感じています。それは学校教育全般ではぐくまなければなりません。授業においてもはぐくむ必要があります。もちろん授業ではそれ以外にも目標はあると思います。豊かな表現力をはぐくむことは他の目標をはぐくむことの邪魔にはならないと思います。豊かな表現力をはぐくむことを考えて、授業を構成しても従来の授業と大きく変わることはないと思うので。ただし、豊かな表現力をはぐくむことを授業者が意識することが重要だと思います。

 

表現力・コミュニケーション能力・ディベート力について

 「豊かな表現力」は研究テーマ設定のところで、「豊かな表現力とは感情のあるがままの表現や思いつきの乱れた言葉での表現などでなく、発信者の深く広い認識に基づく相手の心に届く表現である。」と定義しました。ですから表現力(最終的には相手に伝わるかどうかは二の次。本人が自分の思い・考え・感情etc.をより的確に表現する力。芸術家の作品が、その死後に評価される。その時代に評価されることを第一の目的とはしていない。)と豊かな表現力は違うと考えています。(*もちろん提出した紙面では定義していないことは自覚しています。)それから、芸術家の場合は表現力というよりは表現と単に使われることが多いように思いますが、どうでしょうか?

 

「個の追究がなされたとき、生徒には学習集団というコミュニケーション可能な空間が出来上がり、」とありますが、個の追究がなされないとコミュニケーションが成立しないという意味なのでしょうか?

 もちろん個の追究がなされなくともコミュニケーションというべきなのか会話というべきものなのかは分かりませんが、課題が把握されればその課題に対しての会話は成立可能だと思います。

ただ、私自身は豊かなを意識しています。

 よくあるのが、授業中、友達同士がかかわっていても、一方的に教えてもらったりとか、質問をするだけの姿です。私はそれを豊かな表現力(コミュニケーション)とは考えていません。単なる意志の疎通程度では豊かな表現力とは思わないのです。(では、どこで線を引くのかと言われれば難しいですが・・・。)

 

 余談ですが、この年末年始、私は海外旅行に出かけました。シンガポール,タイです。この2つの国で私自身は言葉のことで問題がぜんぜんありませんでした。それは私が海外旅行に慣れてきていること、私ぐらいの英語力でも何とかなる。(旅行はできるんです。)でも、それは高い意味でのコミュニケーションを図られたわけではありません。

 

事前研究授業でH生が自分の言葉を訂正しました。そのことが想定としてあります。彼を知っている多くの先生が評価しました。それは、彼が友だちを評価する言葉をいうなんて考えられなかったからです。なぜ、彼が変わったかといえば、彼自身も追究したのでそのよさが分かり、そして、最初の言葉では他者には自分の言いたいことが伝わらないので、訂正したのだと思います。彼の中で追究をしたことが素地としてあったので、友達の素晴らしさがわかったのです。

 

豊かな表現力をはぐくめる場は、ただ課題が把握されているだけではなく、自分なりの追究や考えがあって、豊かなコミュニケーションが成立する場できるのではないかと思っています。

 

本番の実証授業でも、数学では75°の個人追究があったので、シャッフルタイムで生徒同士のコミュニケーションが成立したのではないかと思います。家庭科でも1回目の調理という共通体験があり、その子たちなりの食材に関する調理結果をもっていた。このことでコミュニケーションが成立したのだと思います。

 

あの文だけでたしかに言葉は誤解されると思います。ただ、私としては、「学習集団(コミュニケーションが成立する集団ということで、かなり高い意味で使っています。)という質の高い(これを付け加えるべきか?)コミュニケーション可能な空間(豊かな表現力をはぐくむ場と考えています。ですから単なるコミュニケーションではなく高いものを考えています。)が出来上がり」と考えています。

 

コミュニケーションを通して個の追究が深められていき、その上に立って更に質の高いコミュニケーションがなされ、質の高い個の追究がなされていくという繰り返しでは無いでしょうか?

その通り徐々に高まっていくものだと感じます。ですから、私はあそこで磨きあげると表現しました。磨き上げるとは先生方の書かれている意味で使っています。

 

そして、教育が最終的に求めることは質の高い個の追究がなされていくことであって、コミュニケーションはその手段ではないでしょうか?

 これは、前に書いたように通り、手段でもあり、目標でもあります。

 

「話題」の解釈

 話題に関しては、前に書いたとおりです。他にいい言葉が見つかりません。

 

話題と学問

 私はこのように書きました。「お互いが共通の基盤に立つ話題が生まれる。その話題は学問という文化と歴史を背景としたものを基盤となるので、誰に対しても平等でしかも質の高いコミュニケーションの可能性を有するものである。」

 授業では話題(?)なり生徒同士が関わりあえるものが生まれてくるというのは異論がないことだと思います。私はその話題なり関わりあえるものが生まれることが素晴らしいことだととらえています。それは普段の生活の中で人と人が関わりあえることが難しくなってきているからです。(なかなか質の高いコミュニケーションが大人でもとれることは難しいです。)そして、それは授業ですので低レベルのものではなく、学問に関わるものです。「誰に対しても平等でしかも質の高いコミュニケーションの可能性」は「学問」というものの性質です。

 (*その意味は伝わりませんかね?考えて見ます。)

 

すいません。いろいろ書かせていただきました。いろいろ書いてもあの紙面では伝えることができないので、あまり意味がないと分かってはいるのですが・・・。

でも、私自身は豊かな表現力はこれからの教育を変えていく力だと思いますし、眼前の生徒たちを見ていて、切実感のある目標です。

ご指摘の場所に関して、全面的に訂正させて頂きます。

「情けない」と思う心

 これを書いたのもおそらくH25年です。ちょうどたいへんな学校でタブレット活用の研究を始めた頃です。おそらく全県の中で最初に始めたと思います。タブレットをようやく企業からお借りして,まだ校内の行き届かない厳しいネット環境の中で始めました。そんなとき,たいへんな学校です。電源ケーブルが盗まれるという事案が起こりました。そのとき書いた文章です。書いた後,どう利用したか覚えていないのですが,結局最後は戻ってきたと思います。やはり中学生,まだまだ純粋な面はあります。

 

「情けない」と思う心

  私のクラスだったAくんは,今年,東京の私立大学に入学した。部活の方でも活躍していたので,在校生の中でも知っている生徒はいることでしょう。彼が中学3年のときに,原因は忘れたが生活記録に,「僕は〇〇中を情けなく思う」と書いてきた。それを読んだとき,まともな感性を持っている生徒がいることに安心したと同時に,「生徒が『情けないと思う学校』では,それこそ情けない学校だ」と悲しくなった。そこで機会があるたびに“PRIDEをもてる学校づくり”を呼びかけてきた。そして,学校のいろいろな場面で,生徒がPRIDEのもてる学校になるように努力を積み重ねてきた。また,自分では少しずつそのような学校に近づいてきたと感じてきており,今年の4月のオリエンテーションでいくつかその成果を発表した。そして,生徒会の目標に負けないように,さらに上を目指そうとがんばっていこうと決意を固めていた。

 しかし,そんな気持ちが一挙に吹き飛んだ事件が起こった。なんと“〇〇社から貸していただいた「タブレットの電源プラグ」が,いよいよ生徒の授業に使っていこうとした矢先に盗まれた”のだ。このときほど怒りを通り越し,東北中を情けなく思ったことはない。弁償したお金は〇〇円程度でしょう。しかし,おそらく盗んだ本人は分かっていないだろうが,〇〇中や生徒にもたらした損失の大きさは計り知れないことを。

 社会に出て一番に大切なことは,「学生時代のテストの成績や部活動の成績ではない」と私は思う。一番大切なのは人としての“信用”です。〇〇中はひとつ大きな“信用”を失ってしまいました。実は借りるには冬から6ヶ月近い交渉を重ね実現しました。実現に至るまでの交渉の原点にあったのは,卒業した先輩たちと先生方が共に築きあげてきた“ICTを活用した授業”の実績です。盗んだ人はこの“見えない財産”をおそらく何も考えずに壊しました。

 全国的にはタブレットを活用した授業が進んでいる地方公共団体は〇〇県,〇〇市と言われています。その中で「本県は遅れをとっている」と私は感じています。おそらく県内の中学校でタブレットを〇〇本社から借り受け,生徒が活用した授業は中学校はないと思うので,“〇〇中が県内のトップ”になっています。しかし,先進的なところは研究がすすみ,来年度からいよいよ生徒一人ひとりに〇〇等が配布され,授業が行われといいます。しかし,〇〇市さらに〇〇県は今回の事が陰を落とすことになるでしょう。タブレットが教室に入ることは遅れるでしょう。

 21世紀の社会の中で活躍できる人間像を描くとき,語学と共にICTの活用能力も当然含まれると私は考えます。そうでなければ進んでいる米国,韓国には追いつけない。もしかしたら「私はそんな人じゃないから・・・」と考える人もいるかもしれません。しかし,人は人とのつながりの中で生きています。日本の中でそのような人材が現れなければ日本の経済は沈み,君たちの今の生活は維持できなくなります。

 たった一人または数名の泥棒のせいで,周りがどれだけ被害を受けるか分かっただろうか?

 もちろん,私も大きな学校の中で,そんな生徒がすべてだとは思ってはいない。生徒会が掲げた目標のように,がんばっている生徒もいることもよく分かっている。学級長会では生徒の考えで校内に時計が設置されました。それを壊す生徒がいるという悲しい現実があるものの,負けないで「着席チャイム」を徹底していこうとしています。そして,その陰には毎日クラス全体で着席チャイムを行い,リーダーをバックアップしようとする。級友たちの思いやりのある姿があります。また,事務局では今まででは考えられないほど,HPの更新を行っています。これは他校の追随を許しません。私が知っているだけでも,めげずに上を目指して努力している生徒の姿はまだまだ〇〇中にたくさんあります。そんな人もいることを信じ,2学期,私もめげずに“未来のため”にがんばりたいと思います。

 いろいろ難しいことを書いてきました。おそらく難しいことばを使って書いているので,意味が分からない人もいるかもしれません。また,「人の気持ちが分かる」などという高尚なことは望まない。しかし,これだけは分かって欲しい。泥棒は“犯罪”であり,いろいろな方に迷惑をかけ,社会を壊します。そして,自分の“品性”を汚し,最後は自分自身が大きな損をするということを。そう,最低限,「泥棒することは『情けない』と思う心」は人として持って欲しい!

 

キャリア教育について

 おそらく平成25年ごろに書いた文章です。そのときは困難校に勤めていた頃です。生徒指導をどうにかしようとして,キャリア教育に頑張っていた頃です。

 キャリア教育を実践し始めて,4年目になります。教育課程「総合的な学習の時間」の研究指定校になり,その荷の重さに困ったときに,比較的多くの先生方に理解され,負担も少なく,生徒の育ちが期待できる題材にしようと考え,職場体験学習を絡めることができる,この題材を提案しました。

 自分としては1年で終えることを考えてもいましたが,“3年間継続した指導を本校の教育の中核に据えるように,と学校長から求められ,ここまでやってきました。学校がたいへんな時期を乗り越え,ここまでやってきて,キャリア教育のお陰で学校が立ち直ったとは言いませんが,学校をよくする要因にはなってきたと考えます。

 大崩れになるんじゃないかと心配した。一学期のたいへんな時期が過ぎ,一応の平穏が学校生活の中にあるように感じます。しかし,学校全体が「生徒のうわべばかりを見ているのではないか」と心配しています。本校が「なぜキャリア教育なのか?」,「なぜモラルスキルトレーニングなのか?」を考える必要があると思います。指導困難な子どもたちを眼前にし,そう主張してきたのは,もちろん私だけではありません。他に生徒の内面をはぐくむことができる手だてがあるなら,その方法を実践することを否定しません。

 指定校研究として対応として,苦肉の策で始めたキャリア教育です。次の年,「三年間,取り組めるように」との指示のもと,ここまで進めてきました。しかし,この方向は間違っていないように感じています。

 生徒とはじめとする,保護者・地域・社会の変容を考えときに,十年,二十年前の方法で,生徒を指導し,教育することは不可能になってきていると感じています。特に,自分自身も学校のもつ文化的な側面を潜在的なカリキュラムとして利用して,生徒を形に入れようとしますが,「形に入れる教育は厳しい」と感じています。

 本校が抱える教育上の困難点は多々ありますが,林先生(上越教育大)のことばを借りるまでもなく,本校の子どもたち,今の子どもたちは「人間関係調整能力」(私は表現力と言ってきました),「自尊感情」(前教頭T自己肯定感ということばを教えてくれました)に課題があることは明らかです。

 そのための教育の手だてとして本校は,未来に夢や憧れをもち今の自分を見つめ生き方を考える「キャリア教育」と「Most」を考えているのだと思います。

※「Most」とは,モラルスキルトレーニングです。私は簡単に言えば,「考え合えればOK」という,今の道徳のあり方には違和感を感じます。「『Most』をもっと取り入れるべきではないか」と考えています。

1年 正の数・負の数の乗法(数学1年「正の数・負の数」の授業)

最初に,つぎのことばを提示します。プリントを配布するのもいいでしょう。

 

中野さんは東に向かって毎時3kmで歩いている。現在ちょうど家の前(原点)を通過した。2時間後にはどこにいるでしょうか。

  

 もう一度,ことばを確認しながら,模型を黒板に提示していく。途中,+(東)-(西),+(時間)前,-(時間)後を確認します。そして,「このことばを式に表すとどうなりますか?」と問う。

     (+3×+2)=+6

符号をつけるように指示すれば,(+)の符号をつけてきます。さらに符号が東や後を表していることを確認します。

 「これを図で説明するとどうなるかな?」と問い,生徒を前に出させ,模型を動かしながら説明させます。

ここで余談ですが,

私の授業は生徒を前面に出した授業を心掛けています。したがって,生徒が板書したり,教室の前に出てきて説明する場面を大事にしています。もちろん板書が難しければ書画カメラを利用していますし,ICTで画像を送れる学校ではiPadでノートの画像を送らせていました。世は板書計画なるものを大切にするせいで,生の生徒の考えを出すことを疎かにしていないかと思います。私は数学の学習は学力差がでるので,個別で学習した方がよいと考えています。授業で学習することのよさは,多様な考えを学べることだと考えます。したがって,いろいろな生徒の考えを学びあうことが授業のよさだと考えます。したがって,もちろんある程度の計画は必要ですが,教師主導の意図した板書でなく,生の考えが出てくる板書がよいと考えます。

 

ここで余談ですが,

私の授業は生徒を前面に出した授業を心掛けています。したがって,生徒が板書したり,教室の前に出てきて説明する場面を大事にしています。もちろん板書が難しければ書画カメラを利用していますし,ICTで画像を送れる学校ではiPadでノートの画像を送らせていました。世は板書計画なるものを大切にするせいで,生の生徒の考えを出すことを疎かにしていないかと思います。私は数学の学習は学力差がでるので,個別で学習した方がよいと考えています。授業で学習することのよさは,多様な考えを学べることだと考えます。したがって,いろいろな生徒の考えを学びあうことが授業のよさだと考えます。したがって,もちろんある程度の計画は必要ですが,教師主導の意図した板書でなく,生の考えが出てくる板書がよいと考えます。

 

  さて,学習問題は次の通りです。 

 このことばの条件を変えて,そのときの中野さんの位置を考えながら位置を求める式を作りなさい。なお,自分の決めた条件を明らかにし,位置がそうなる理由を(図やことばで)で説明すること。

 今日は,正負の数の乗法を学習するので,(+)×(+),(+)×(ー),(ー)×(+),(ー)×(ー)の式をつくることを確認します。そして,変えられる条件を確認します。値の絶対値は歩くこと,時間なのであまり大きな値にできないことを確認し,変えられないことを確認し,符号を変えることを気づかせます。個人追究→グループ追究させます。グループ追究では,「自分の考えたことを発表しましょう」と言います。

全体追究

 さて,ここでのポイントは(ー)×(ー)です。他の場合はすんなりと流れます。生徒を前面に出して,説明させましょう。

(ー)×(ー)=(ー)になっている生徒が多数いるはずです。全体追求では(ー)×(ー)=(+)と(ー)×(ー)=(ー)で論争させましょう。グループ追究で論争しているグループがあれば,その議論をそのまま全体追究の場に出すのもいいでしょう。もちろん間違えから発表させるなど,学級の実態によって,授業を展開しましょう。それが授業のよさです。

学級の意見が(ー)×(ー)=()に落ち着いての納得できない生徒も出てきます。そんなときは著名な数学者も納得できなかった話をして,その生徒を誉めて,授業を終了します。